3,死という事実,そして心 1
では,私たちは,その死という現実をどう見つめたら良いのでしょうか・・・ 見つめ方は,決して ひとつではありませんし,長い時間をかけて, ゆっくりと,自分なりに納得できる解釈が見つかれば,それで良いと私は考えています。 ここでは,私なりの ひとつの考え方を,例にあげてみたいと思います。 (あくまでも,「考え方」の例ですから,同じである必要もないし,違っても考え込む必要はありません) 世の中の流れに,ごく普通に沿って生きているのならば, 生も死も 深く考え続けることもなく,真剣に見つめることもなく, 生き続けるのが人間としての性(さが=自然な姿)と思います。 けれど,生と死を見つめ,故人が自ら,自死の判断をしたとするならば, それには,いろいろな要因があり,それが重なり,その上での意思決定があったと思えます。 警察庁の統計には,自死の原因として,健康問題,経済問題などを上位にあげていますが, 私が,少なくはない遺族の方と話してきた感覚として, 「たったひとつの要因で,人間としての生きる性を覆すほどの意思決定をすることはない」 と感じています。 江戸時代の自決などは,はっきりとした意識の上での自死かもしれません。 死にたくはないと思っていても,そうなる社会的責任があったと考えることもできます。 そして、それは社会的に強制された(意識的にも無意識的にも)ものであり, 美化すべきものでもなく,本当に意識が明晰な状態で自死を判断・決定したのか と言えば,やはり疑問も残ります。 けれど,現在の日本において,自らの命を自らの意思によって絶たなければならない という,社会的な強制は存在しません。 どんな状態であったとしても,逃げる権利(生きる権利)は法律によって保障はされています。 では,なぜ,性(さが)の力に逆らうような,強い意思決定ができたのでしょうか・・・? 私は,ここ数年の間に,メール,掲示板などを使って,1000を越える自死遺族の方の お話をお聞きしてきました。 また、自らが死に至る行動を選択したけれど,今現在、生命をながらえている方の体験談も, 遺族の方のお話以上の数として、聞かせていただきました。(私の今の家族も含みます) それらのお話や体験談をうかがった結果、私が、今の時点で感じるのは, ほとんどの場合において, 「自死行動をするその瞬間には,様々な要因によって,明確な判断能力が失われた状況にある」 のではないのか?・・・ということです。 もちろん,すべてがそうであると言い切れるものではありません。 さらに,だれもがすぐに,まして1年や2年の時の流れによって, 違和感なく受け入れられる考え方とも思ってはいません。 けれど,ここで,故人は明確な判断能力が失われた状況の中で亡くなってしまった・・・ と,考えてみたらどうでしょうか。 そう考えることが出来たとするならば, あなたが、自分自身や,故人も含めた特定の人,そして出来事に対して、 過度に責め続ける必要はない と思うのです。 もちろん,自責も他責も,それ自体いけないものではありません。 それは,自分の求める姿に,自分を変化させていく力として必要なものと思います。 そして,そのそれぞれの要因に対して,相応な責任が存在することは事実でもあります。 私は,自分と自分が大切に思うすべての 今 を生きる人にとって, さらに,大切に思う故人の尊厳を守るためには, 「 自分は,この今をどう生きたらいいのか? 」を, ゆっくりと時間をかけて,考え続けることが大切なのだろうと考えています。 明確な判断能力が失われた状態と,上に書きましたが, それについて,もう少し,掘り下げて考えてみたいと思います。 (もう,十分・・・という方は,「今を見つめて 4」 にお進みいただいても構いません) |